[インタビュー]アサヤ

廣野さん一家との出会い

アサヤの廣野一誠さんと初めてお会いしたのは、2015年秋の「ちょいのぞきin気仙沼」の唐桑御殿のツリーハウスの会場だった。
その時は一家で来ていて、ご家族で楽しそうに過ごしているのが印象的だった。
八日町の災害公営住宅に関わっていることを伝えると、ご自宅と現場がご近所であることが分かり話が盛り上がったのを覚えている。

そこから数ヶ月と経たずに、今度は南町にあるco-ba Kesennumaで廣野さんが話し手となって出演しているイベントに私は観客として参加した。

そこで話されていた廣野さんの考えはとても柔軟で、気仙沼の町をすごく肯定的に捉えていて、まちを盛り上げていく・作っていくためのヒントを話の中で見つけることができた。

「普通の町だとパチンコ屋ってダークなイメージになりがちですよね、気仙沼は漁師の町だからかパチンコ屋が多い。けど、漁業と一緒で『勝負の勘』を鍛える場なので、漁師の人たちがパチンコに興じる気持ちは良く分かる。そういう町の雰囲気も僕は好きですね。」

記憶は曖昧だが、確かこのような発言をされていてとてもユニークな考え方を持っている人なんだな、と思った。

漁師さんのためのコンサルタントのような仕事

アサヤ株式会社は漁船で使う網や浮きなどの漁具を商品として扱う漁師さんのための会社だ。以前は八日町に事務所を構えていたが、今は松川前という場所に本社を移している。
漁具を商品として扱う、と書いたが、それだけに限らず、漁船自体に関わる事業を展開している大きな会社だ。「1850年創業『漁民の利益につながる、よい漁具を』」のコピーが象徴するように、漁船部門・養殖部門・定置部門と分かれて気仙沼、東北の漁業を全面的にサポートしている。

アサヤの専務である廣野さんは、気仙沼八日町生まれ。中学・高校は大阪へ進学、大学からは東京で過ごされていた。大学卒業後も東京の会社で働いていたが、2年前に地元である気仙沼に帰ってこられた。

「生まれてから12年間を八日町で過ごして、そのあとは6年間を大阪、14年間を東京でした。こっちに奥さんと子どもと帰って来て2年。やっと気仙沼で過ごす年数と東京の14年間が釣り合ったんですよね(笑)」

震災は「きっかけ」ではない。

私は、廣野さんがco-baのイベントで話されていた時に「震災が起きたことが自身にとっても大きな出来事で震災後に心を決めてこの町に戻って来たのかな」と勝手に想像していた。「震災がきっかけとなって気仙沼に戻られたんですか?」
廣野さんにそう聞くと「それは少し違います。」ときっぱり返答されてしまった。

「元々家業を継ぐつもりでした。新卒で就職した会社でも修行しているようなつもりで仕事をしていた。帰るタイミングが震災後となったのです。奥さんと子どもと3人で気仙沼に帰って来たんです。」

このホームページ事業や町に関わる事業で、たまに思うことが「震災について自分が少し勘違いしている」ことである。大きなダメージであることは間違いないのだが、皆さんそれを引きずっているわけではない。「地域への貢献」とか「きっかけ」とか生半可な言葉では、あの震災から立ち上がった人たちの努力は定義できないのだ。「震災が起きたからこのような事業・活動を考えました。」となってしまうと、まるで震災をビジネスにしているようだ。震災はそんなものではないはずだ。
廣野さんは続ける。

「とは言え、震災が自分に影響を及ぼしているのは間違いないです。経営者としての自信が付いたら帰ろう、とは思ってましたが、いつまで経ってもそんな自信は付かず、もうちょっと修行して成長したら・・と先延ばしにしていましたから。それが、震災から2年後の夏、瓦礫で埋まった街がガランと片付いてしまったのを見て、俺は本当に大事な時期に気仙沼にいなかったんだ、一番頑張らなきゃいけない時期を逃して、一体何をやってるんだ、と思って。」

「それから1年半、住む家をどうしようかとか、前の会社を辞めるのにどう引き継いだらいいかとか、いろいろと段取りを考えて、ようやく2014年の冬に気仙沼へ帰れたんですよね。だから、震災から3年半の間、アサヤや気仙沼を支えてくれた方には頭が上がらないんです。」

「ここから先は俺がバトンをもらって頑張るから安心して見ててね、というのが、会社の仕事以外にもいろいろ首を突っ込んでしまうモチベーションですかね。本当、残りの人生かけて恩返しをしなきゃいけないのかなって思ってます。」

文章では表現しきれないような、廣野さん自身の仕事・生活への想いを聞くことができた。当時の将来への考え、後悔のような感情や感謝の気持ち。様々な想いが渦巻いて廣野さんの今のスタンスがあるのだと気付かされた。「きっかけ」なんてものではなく「決意」のようなものを私は廣野さんの言葉から感じた。

 

八日町の思い出

生まれてから12年間を八日町で過ごした廣野さん。
廣野さんは私と近い歳でもあるので自分の歴史とも照らし合わせて想像しやすそうと思い、子供時代の思い出を聞いてみた。

「八日町には6人同級生がいましたね。気仙沼小学校までいつも紫さんの脇の坂道を登って登校していた。」「ムサシヤさんによく遊びに行ってた。『ガチャック』という文房具があるんですけど、それを買ってファイルをまとめたりしていました(笑)家の目の前に会社があったので、会社に行くと経理の人が書類を整理したりしているのが見えて、そういう光景が自分の原風景なのでしょうね。」


出典:wikipedia 撮影者名:Kiyok

ガチャック!!懐かしいです。
やはり同世代。感動してしまうような深い話の直後にはこんな楽しい話もすることができた。趣味の話は私とつながるところが所々あって話していて楽しい。

「小さい頃からパソコンをいじっていて、5歳の時に会社にあったワープロを使ってカレンダーを作ったりしていました(!) なので、自然と大学卒業後もITコンサルの仕事をすることに繋がって来たんだと思います。」

 

気仙沼って「栄枯盛衰」の町ですよね。そこがいい。

「『八日町』という括りで『これからどういう町にしていきたい、こういう町になって欲しい』という像はイメージしづらいですね。かといって『気仙沼』を『一つの町』として考えるのも無理があるしなあ。例えば、前に鹿折でやっていたお祭り。すごい良い規模だったと思うんです。少し小さいスケールでイベントやお祭りを考えたとしても、広報をしっかり行えば人がちゃんと集まってくれる。けど、人があまり来なくても、それはそれで楽しいイベントになるんだなってことが気仙沼で色んな活動を通じて分かってきた。」

「昔は漁業で、町にすごく活気があった。今はやはり少し寂しくなってしまっている。だけど、昔の活気あった時代を、きちんと覚えている人たちが大勢いるのが気仙沼の強みだと思うんです。町に対して誇りを持っていること。」

全く同感してしまった。何かやるには、まずはその気持ち・思いを抱くこと。「きっかけ」なんてあってもなくても良いのかもしれない。
「この町が昔はすごい町だったなんて、それ自体がすごいことでしょう!」と冗談(?)を言えるくらいの心持ちでまちづくりの活動を続けていこうと思ったインタビューだった。

(文・吉川晃司)

商店名 アサヤ株式会社
業種 漁具の製造・販売
代表取締役社長 廣野浩さん
話し手 廣野一誠さん
創業年 1850年
営業時間 8:00-17:00(平日のみ)
住所 松川前13-1
電話番号 0226-22-2800
ホームページ http://www.asaya.co.jp/
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